「行ったか」
八木邸の門前で井吹を見送った斎藤の背後から土方は声を掛けた。
「はい」
振り返って答えた斎藤に土方は呆れ顔をして歩み寄る。
「ったく、自ら命乞いしてやった相手に別れ際刀を突き付けるなんざ……本当にお前は大した奴だよな」
「副長……」
斎藤は小さく呟くと、腰を下りすっと頭を下げた。
「昨夜は真に申し訳ありませんでした。あのような願いを聞き入れて下さり、感謝しております」
「そりゃもう聞いたよ。しかし、まさかお前があいつにここまで肩入れするなんてな。……不思議なもんだぜ」
直談判で山南・土方に一歩も引かず井吹の助命を嘆願した斎藤。もし土方があそこで断っていたら、刀を自身に突き付けるか斎藤自ら井吹逃亡の手引きでもしたんじゃなかろうかという勢いだった。
(だがそれでも斎藤は井吹に釘を刺した)
新選組の知ってはならなかった機密を決して漏らさぬようにと。上に逆らう程井吹に肩入れはしても、真に新選組の害になるようならば斬る、と。それを言え実際にそうするであろう斎藤の強き心こそ斎藤が信頼に足る理由だ。
「……有難うよ」
「?」
不思議そうな顔をした斎藤にもう一つ言うべきことを思い出し土方は告げる。
「あの絵のことだが……井吹は確かに絵の天分があるかもしれねえな。あれにはそう思わせるだけの迫、魂が込められていた」
「はい」
「お前……あの日永倉を本気で止めてくれたんだな」
「何があってもかの者を屯所に近付けぬようにとのご指示でしたので」
その返答に、土方は目を閉じてあの日の光景を脳裏に浮かべる。
降りしきる雨、跳ねる泥、振り下ろす幾つもの刃、受け止め押し戻す芹沢の太い腕、……やがて飛び散った鮮血。
あれは長いようにも短いようにも感じる時だった。そしてその頃、斎藤もまた永倉を止める為に命を賭けていたのだ。その場に居ずとも、あの絵を見ればそれがどれだけの戦いだったかが分かる。
「お前でなけりゃ、駄目だった」
総司が芹沢に直接手を下す側にいた以上、永倉ほどの使い手を止めるあの役は絶対に斎藤でなければならなかった。たとえ同士殺しの汚名を斎藤に着せることになったとしても。
「斎藤」
土方は表情を引き締めて斎藤を見つめた。
「今後新選組はもっともっとでかくなっていく筈だ。俺が必ずそうしてみせる。その道すがら、お前に今回よりずっと嫌な役目を負わせることになるかもしれねぇ。……いや、恐らくお前には負わせちまうだろう。それでも……ついて来てくれるか」
再会した日の夜に見せたのと同じ、真剣な土方の眸に見据えられた斎藤の胸が熱くなる。
深く頷き、発した言葉は
「俺は貴方に役立つ為に此処にいます」
土方はそれを聞いて満足気に微笑んだ。
「有難うよ」
そうして、不意に斎藤と随分長いこと見詰め合ったままの状態でいることに気付く。
澄んだ藍色の双眸に見つめられていることが気恥ずかしくなって、土方は誤魔化すように視線を逸らした。
「昨晩は、お前のせいで山南さんに叱られちまったよ。驚くほど俺が……お前に甘いってな」
「それは」
申し訳ありません、とまた謝ろうとした斎藤を身振りで制し、土方はふと斎藤に手を伸ばした。
前髪から長く伸ばされた横髪へと手を滑らせ、滑らかな髪を一房取り近付く。
「お前には、甘くしてやる。だから……俺の傍にいろ」
これから先俺が鬼となっても。
近付けた土方の身から離れることなく、斎藤はただ「はい」と満たされたような顔で首肯した。