夜の海は静けさに包まれている。
柔らかに砂を踏む足音と潮騒が一定のリズムで響き其処に月光が混じるのみの、美しい夜だ。
そんな穏やかな月夜にも関わらずアーシェが眠れずこうしてテントを出て浜辺を歩きたくなったのは、此処が帝国領だからだろうか。
と言っても落ち着かないからではない。心が波立っていないのに何故か睡魔だけがやって来ない、薄ぼんやりとした気分だった。頭は冴えないのに
目が冴えていると言えばいいだろうか。
白砂を見つめながらアーシェは歩く。ハンター達のキャンプがあるこの場所は比較的であるが安全で、
長閑さに守られたこの浜はアーシェに仄かな安らぎを与えていた。
敵国の領地で感じるその感覚がアーシェには何処か不慣れなのかもしれない。
本当ならもっと気を張り詰めさせているべきなのだろうから。
ふと、波間に月の揺れる前方の海を眺めていたアーシェはその視界に入った岩肌に影を見つけた。
それは人影のようで、誰だろうと窺いながらアーシェは歩を進める。
程無く、その人物が誰か分かった。
「バルフレア……」
砂から生え出たような大きな岩に凭れるように立った儘、男は煙草を吸っていた。
アーシェの声が聞こえたのか単に気配に気が付いたのか、彼の海に向けられていた視線がゆるりとアーシェへ向け
られる。
彼は煙草を挟んだ指を会釈のように持ち上げて言った。
「よう王女様。こんな夜中に一人で散歩か?」
「……ええ、まあ」
アーシェは答える。そして波の音が声を塞がない距離までバルフレアに近付いて、何とはなしに彼の煙草に視線をやった。
「煙草、吸うのね」
「たまにな。普段は吸わない」
バルフレアは簡潔に答えた。
確かにアーシェが彼の喫煙を見るのはこれが初めてだった。ふと、
吸う時と吸わない時があるならばどんな時に吸うのだろうと思った。が、それを聞こうとは思わない。
今のバルフレアは少しだけ雰囲気が違うような気がした。いつもお喋りな男というわけではないけれど、今は夜に
沈むような寡黙さを纏っている。その落差が喫煙の理由だろう。
(彼にも思う所があるのでしょうね)
昼間の彼の話を思い出し、アーシェはそう思う。
彼の過去、父親との確執。それを嫌でも彷彿とさせる都市へと向かっているのだから。
そしてそれは自分に今睡魔を齎してくれない不明瞭な思考の正体と近いものではないかとアーシェは考えていた。
確かめるようにアーシェは口に出す。
「ソーヘンを抜けたらすぐに帝都?」
「ああ」
「帝都は……」
どんな所ですか? と訊こうとした儘口は止まった。
全ては自分の目で確かめるべきこと。
其処がどんな場所で、人々がどんな生活を送っているのか。
何でもないわ、と首を振ったアーシェにバルフレアは静かに問い掛ける。
「帝都に行くのは不安か?」
核心を突いた問いだった。アーシェは一度だけ彼を見て、それから目を逸らした。
「……分からない」
帝国はダルマスカを侵略し、アーシェにとっての全てを奪った国だ。
其処を訪れその国の姿を目にした時、もし人々が何もかも忘れたように、あるいは全くの無知のように笑っていたら。
犠牲を忘れ幸せだけを手にしていたら。
誇りが傷付けられるかもしれない。憎しみと悔しさに胸が潰されるかもしれない。
過去に絡め取られて身動きが出来なくなったら?
そんな不安が―――――ずっとあった。
「貴方は?」
アーシェが訊ねるとバルフレアは唇を笑みの形にした。
「俺は……此処まで来たら逃げる気はねぇよ」
彼は真っ直ぐに前を見据えている。
彼にはもう、過去と向き合う覚悟が出来ているのだと思った。
強い人、という印象は出会った頃から変わらない。
彼は口達者でずるくていつも捕らえ所の無い人だけれど、結局最後はどんなことでも受け止めて見せそうな強
さはアーシェが望んで止まないものだった。
「……ヴァンとパンネロは、平気なのかしら」
アーシェはぽつりと言った。
バルフレアにとって帝都は故郷であり、アーシェには帝都に行き現実を見る責任がある。しかしあの二人はダル
マスカの民というだけで、もし帝都に行くことが彼らの戦争で負った古傷
を抉るようなことになるならば連れて行きたくはなかった。
そんなアーシェの懸念を分かっているのだろう、バルフレアは安心させるように軽い口調で言った。
「だーいじょうぶだろ、あいつらは。二人ともお子様だがこの旅で成長してる。ダルマスカ人は元々タフみたいだしな」
「そう……ですか?」
「ああ。お前もだアーシェ。あれだけ逞しい民を治めるダルマスカの王族なんだ。今更帝都に行っても動揺しねーよ」
「強く、ありたいんだろう?」と昼間の続きのようにバルフレアがアーシェの眸を覗きこんだ。
「ええ」迷わずにそう答える。
“そうありたいと願う”
昼間彼と話した時抱いた思いは絶対にこの先も忘れてはならないと思う。
恐れや怒りで我を忘れたりせず、王族として何をなすべきかを見極める強さを。
「…………」
ただ、アーシェの心にはたった今もう一つ湧き水のように現れた思いがあった。
(貴方が――)
こちらを見るバルフレアの目を見つめる程にそれは膨らみ、アーシェの唇を俄に動かした。
「いてくれたら」
口にすることに戸惑いを覚えながらも、隠すことなくアーシェは言った。
「貴方達がいてくれたら、きっと大丈夫だと思う」
その言葉がバルフレアの耳に届いた瞬間彼が目を瞠ったのが分かった。
彼は驚いた表情の儘呟く。
「驚いたな」
「……」
「いつからそんなに素直になった?」
「……失礼な人」
アーシェはそう返したけれどその実腹立たしさは微塵も無い。不思議だった。
今この瞬間彼といることに自然で大きな心地良さを感じる。アーシェはバルフレアを見つめていた。
バルフレアの目が細められる。彼は笑っていた。
「いてやるよ」
その笑顔は気のせいかもしれないけれど何処か嬉しそうなものに見えて。
「お前がそうして欲しいと望むなら、な」
とくん、と。アーシェの胸が高鳴った。
湖面に落ちた小石が作る波紋のように、それは静かに、音も立てずにすうっと広がっていく。
立ち尽くすアーシェに気付かずバルフレアは何とはなしに歩き出した。
さく、さく、と遅いテンポの歩みにアーシェの歩も重なり出す。
海辺に響く二つの足音を聞きながら、アーシェは前を歩くバルフレアの指先を見つめていた。
視界に入る彼の長い手がとても気になって。そっと、手を伸ばす。指先が――触れる。
「? アーシェ……?」
はっとしてアーシェは手を引いた。
何をしているのだろう。どうして手を伸ばしたのだろう。
何も言えず沈黙していると、不意にその手が取られた。
「………っ」
振り向いたバルフレアがアーシェの手を取り、きゅっと、結ばれる手。
背丈の違う親子がそうするような、指先を握るだけの微かな、けれど温かい――。
胸の奥が跳ねて鼓動が少しだけ乱れるのを感じながらアーシェは顔を上げる。すぐ近くでバルフレアの頬が
ふっと緩むのが見えた。
「案外甘えたがりか? お姫様」
今夜は随分可愛いじゃないか、とからかうように言われた。
覗き込まれた顔はどんな表情をしているだろうか。
アーシェは顔を逸らし、けれど心地の良い指先を離さなかった。
温かくて、優しい。
幼い頃父母がそうしてくれたように、二年前ラスラが手を取ってくれた時のように、同じだけ温かかった。
「ま、ゆっくり戻るか」
軽く手を引くバルフレアにアーシェは頷く。
彼もまた手を離さない。そうしていることが自然だというように、当たり前のようにアーシェの体を引いていく。
彼の言葉に従うように自分も彼も歩みが遅い。テントまでの短い距離をこうして歩くのはこの時が終わるのを惜しむ
程心地良いからだと、アーシェには自覚があった。彼がどう思っているのかは分からないけれど。
彼は家族でなく、従者でなく、騎士でなく、まして恋人でもなく。
本来ならばこうして手を取り取られることも無かった人。
初めは遠く、近付こうとしなかったこの人との距離が今こんなにも近いことを不思議に思った。
劇的と言ってもいい。それでもまだ、或いは彼との距離は変わるのだろうか。
(もっと近くに――?)
繋いだ指先が繋ぐ手の平へと変わり、……そしてもっと近くへ?
――そんなことは絶対に無さそうな気もしたし、有りそうな気もした。
フォーン海岸イベントのあの緩く手を握る感じに萌え転げた。