不安定認識





  海際で鉄の柵に両手を掛けながら、アーシェは耳に心地良い波の音と潮を含む風 に触れていた。
  背後ではざわざわと人々の往来が聞こえ、それが海の音と調和して溶け込む ように気持ちを和らげてくれる ような気がする。
  その穏やかさに促されるように自然と目を閉じて、ほう、と 息を吐いた。
  この街に来た時、少しだけ戦前のラバナスタに似ていると思った。
  暑くて暖かくて、活気があって、誰もが生き生きとしている。
  ラバナスタもバーフォンハイムも、アーシェは普通の住民と同じように暮らし たことはない。 だからどちらもよく知っているとはいえないのだけれど、ここの人々は実にのびのびと暮らして いるように見えて、 ダルマスカの民にもそうであって欲しい、と願うのだ。
  その願いを叶える為に必要なのは、誰にも勝る力。
  けれど力は私を狂わせてしまうかもしれない。
  そのことに気付いたから、この街が国の為に戦う意思のないことを知っても、 それほど大きな落胆を感じずに 済んだのかもしれない。
  きっかけをくれたのは、彼――だった。

  何気なく左の方、白波亭の方に首を向けると、ちょうど扉から人が出てきた。
  バルフレアだ。
  酒瓶を左手に持ってゆったりとした足取りで表に出ているテーブルの一席に着く。
  日のあまり当たらない軒先を選んでいるのが彼らしいと思い、アーシェは目を細めた。
「いい顔だねぇ」
  と、すぐ後ろからよく通る声がした。
  はっと振り向くと、レダスの部下のエルザと呼ばれていた女性が微笑を湛え て立っている。
  エルザは片手を腰に当てたまますっとアーシェの隣に歩を進めた。
「ここはいい街だろ?」
「え、ええ……」
  先程ほんの短い間顔を合わせただけの女性に突然話しかけられ、アーシェは少し戸 惑った。
  人見知りでも苦手というわけでもないのだが、エルザのような雰囲 気の女性とはあまり、一対一で接したことがない。
  彼女の髪に飾られた大輪の花がとても似合う、そんな風にぼんやりと思った。
「あんた、結構見られてるよ」
「え?」
「広場の男達にさ」
  エルザは柵に背を預けるようにして長い髪を艶やかに掻き上げながら、「あんたみた いなタイプは此処じゃ 珍しいからね」と言った。
「珍しい?」
「そ。あんたって何処かいいとこのお嬢さん? 立ち方とか仕草とか、この街では見られないお品柄」
「……」
  品柄、という言葉を向けられるのは気分が良くない。
「あぁ、追求はしてないよ? あんたはレダス様の客人だし、皆もそれを分かってるからあんたに チョッカイ出す気はないさ」
  にっと気持ちのいい笑顔を作ったエルザを見ながら、アーシェは少々害した気分を払底さ せるように溜息を吐いてから、訊いた。
「レダスは……どんな人ですか?」
  彼が何か自分に関係のあることを知っているのはおそらく確かで、アーシェは 気になっていた。
  その問いに、エルザは傾けていた背を伸ばし、海の方を 向いて一息吐いてから答えた。
「あの人が過去に何をしてきたかは何も知らない」
  何も知らないから聞いても無駄だ、と先に伝えてから、
「でも、今のバーフォンハイムを作ってくれたレダス様をあたし達は尊敬してるし、感謝してる」
  そう、はっきりと言い切った。
  エルザの真っ直ぐな視線をアーシェはじっと追い、それから海を見た。
  何処までも青い大洋に、たくさんのカモメ達が自由に舞っている空。
  レダスのことを聞けないのは残念だが、アーシェにはエルザの気持ちが分かるような気が した。
  この海と空と、そしてそこにいるカモメのように自由に空を飛ぶ人を 知っているから。
  掴めない人でも感謝しているからそれだけでいいのだと。
「不思議ね、空賊って」
  知らない場所に想いを馳せるように、アーシェはほろりと言った。
  エルザは「あ」と短く言葉を切ってから、アーシェに笑いかける。
「あんた、さっきと同じ顔してるよ」
  そのままころころと可笑しそうに笑い、その反応に目を瞬かせるアーシェに更に 笑みを深めながら、指先だけで向こうを指差した。
「さっきあたしが声掛けた時、ほら、あそこにいる男を見てただろ? その時と同じ、いい顔してる」
  指差す方向には、白波亭の外に出たテーブル。――そしてバルフレア。
「え……」
「そういえば、あの男も空賊だってね。あんた、あの男が好きなのかい?」
  ――何気なく訊かれたことに息を呑んだのは何故なのか、アーシェには分からなかった。
「……好きかどうかは兎も角、あなたのレダスへの感情と同じです。 彼には、感謝していますから」
  ゆっくりと、自分の気持ちを確かめるようにそう言った。
  エルザは探るように黙ってアーシェを見ていたが、やがて「そうかい」と軽く息を吐いた。
「まぁ、感謝と好意は見分けづらいからね。いざって時に突然分かるもんさ」
  そんな風に言われたのが、アーシェには心地悪かった。
(見分けづらくとも、私はちゃんと見分けてるわ)
  いざって時なんて来る必要は無いし、来ても気持ちは変わらない。
  何も変わらない。

「さて、そろそろ行くよ。あんたと話せて楽しかったから、いい事教えてあげる」
  アーシェが俯いて黙り込んでいるとエルザが不意にそんなことを言った。
  アーシェの顔が上がるのを待ってから、その鼻先に指を突きつけて宣言するよう に告げる。
「一つ、あんたの表情には本物の感情が出てるってこと。そしてもう一つ」
  面食らって固まるアーシェに、更に身を乗り出して言い放った。

「さっき、あの男も同じ表情であんたを見つめてたってこと」

  どきりと心臓が高鳴る音を、アーシェは聞いた。
「このあたしがタダで親切にするのは珍しいんだから、感謝してよね? それじゃ、頑張って」
  エルザはくるりと背を向けて、軽快な足取りで去って行く。
  ……来るのが突然なら、去るのも突然だ。
  アーシェは呆れて溜息を吐いた。
  テンポの良い言葉に咄嗟に何も返せなかったのが悔しい気がして、
「……親切の押し売りです」
  その場に残されたアーシェはぽつりと呟く。
  小さな嵐が心の中を僅かに乱していったような、そんな気分だ。
  アーシェはそっとバルフレアに視線を向けてみる。
  此処から離れた場所で、隣のテーブルに着いている女性と何事か話していた。

(見てないじゃない)

  エルザは“さっき”見ていたと言ったのだから、別に彼女が嘘を吐いたわけではないのだろうけれど。
  何となく釈然としない気持ちを抱えながら、アーシェはもう海を見ることなく、足早に駆けて行った。