眉間に皺を寄せ床板を乱暴に踏み歩く副長の姿に、向かいを歩いていた平隊士は慌てて顔を伏せさっと端に寄る。
美男故に険際立つこの鬼の副長の機嫌の悪さは一目瞭然であった。土方がこの顔で歩く度に次は誰が
腹を切らされるのかと平隊士達は肝を冷やすのだが、身を縮こませるその所作が却って内に疚しさでもあるのかと
問い詰めたい心地にさせることには気付かない。すれ違い様土方はそそくさと去っていく隊士にちらと視線をやった。
(ちっ、こいつも確か伊東派だな)
このところ局内が顕著に近藤派と伊東派に分かれている。品と学があり北辰一刀流の道場主であった伊東に
憧憬の念を抱く隊士は多い。それは土方が伊東入隊の際から懸念していたことだったが、伊東は隊士達に自ら
独自の講義を開くことで土方の予想していた以上に己の地位を確立しているようだ。
お陰で昨今新選組双頭の影は薄まるばかり。更に悪いことに近藤は伊東に心酔していた。
組を己の意志通りに扇動しあわよくば乗っ取ろうとする伊東の思惑に全く気付かないのだ。
(近藤さんもなぁ)
もう少し組織というものを分かってくれればとつい独り言ちてしまうが
(いや)
土方は直ぐに頭を振った。
(あの人はあれでいい)
裏切りが隊を潰さぬよう見張るのは俺の仕事だ、と己に強く念じた。
「どうされました、副長」
足を止め渡り廊下の欄干に肘をついていた土方に後方から声が掛けられた。
それは最近の苛立ちのもう一つの原因であるといってもいい、男の声だ。
土方は振り向く。
「斎藤」
稽古を終え戻ってきたところなのだろう、手には木刀と手拭いを持っている。
「稽古か」
「は。……伊東さんが打ち合いを見たいと仰ったので、少々」
「伊東さんが」
「はい。珍しく伊東さんも平助と打ち合い、注目を浴びていました」
成る程、名高い北辰一刀流の使い手同士の試合なら確かに隊士達は沸くだろう。
だがそんなことより、伊東は斎藤の腕を随分気に入っているようだ。
「そうか」
平素苛立ちなど感じたことのない斎藤に、何故かもやりと頭の一部が揺れた。
伊東とその取巻きである篠原達との距離を斎藤は少しずつ縮めてきた。
それとなく連中を探り徐々に距離を詰めていくようにと、伊東に気を付けておけと命じたのは自分だから、斎藤はただそれを実行
しているに過ぎない。が、近付き過ぎていることを安易に喜ぶ程の油断は禁物で、簡単な話でもない。土方は声を低くした。
「……お前、あんまり伊東に近付くんじゃねぇぞ」
言葉の半分は偽りで――もう半分は本心だ。
土方と斎藤の話す様子を、廊下の向こう側、柱の陰から服部武雄が窺っていた。伊東派服部。斎藤も気付いているようだ。
「俺はそんなつもりはありません」
「そうか? つい三日前もあいつについて飲みに行ったって話だがな。お偉い講義にも熱心に出てるみたいじゃねぇか」
高い学を持つ者への田舎百姓の嫉妬。伊東派の一部が土方を貶めるのに使う言葉を敢えて意識して土方が突っかかると
「副長」
斎藤の声が僅かに冷えた。それだけで場の空気がぴんと張り詰めるのは見事なものだ。
「何を苛ついているかは知りませんが、法度に背いた覚えはありません。……俺はそう縛られるのは好きじゃない」
そう言って直ぐに斎藤は「失礼します」と踵を返した。
「……」
物陰の服部は斎藤を見て、次に黙って斎藤の背を睨む土方を確認すると、実にこっそりと、姿を消した。
土方と斎藤でこれまで何度か似たような小さなやりとりをしている。
あくまでも綻びの変化は徐々に徐々に。そういうことだ。
だが本当にこれでいいのかと己に問いたくなる時がある。
思想や性質の違いからいずれ伊東は新選組を離れるだろう。そしてそのことが新選組に不都合を来す前に土方は手を打たねばならない。
その時、監察を抜かし最も上手く使える唯一の男――斎藤を使わざるを得なくなる。
危険な任務であろうと斎藤は行くだろう。その従順さと勇猛さが、おかしなことに今の土方にはとても煩わしかった。
「縛られるのは好きじゃない、か」
(そんなことはねぇだろう)
己の意志でいつも自らを真っ直ぐに縛り上げ律している。煩わしくも惹きつけられる、それが斎藤の姿だった。