鏡に映る自分と鏡の前に立つ自分。
それがまったく別の存在のように感じる時がある。
魔晄の眼。人ならざるガラスのような鋭利な蒼が、
鏡の中から突き刺すように問い掛けてくる。
“お前は誰だ”
幾度となく頭の中に響いた声が、また聞こえてきた。
誰だろう。正体の分からないものが自分の中にいる気がする。この身体に、頭に誰かがいる。確かに。
頭に声が響く時、細切れの映像がぐるぐると逆巻くように浮かんでくる。
散り散りのそれは波のように押し寄せてきたかと思うと震えるように動き、直ぐに火花を散らせるような音を
立てて何かを形成しようと結集するのだ。
砂嵐の如き激しさで構成されたそのものは、おぞましい化け物の形だったり、子供のようであったり、人間のような
ものであったりする。どれも皆ゆらゆらとはっきりせず、口を開けて何事かを叫んでいるような動きをしても、
それが本当にそうであるのかということは確信できない。
ただ、最もよく聞き取れる言葉があった。
その言葉の発言者が子供のような影であることだけは、何故だろうか、奇妙なことに確信していた。“おもいだせ”、と。そう言うのだ。その子供は。
おかしなことに、子供らしい落ち着きのない声が必死に叫んだかと思うと、今度は少し大人びた少年のような声がそう語りかけてくる。
そしてそれは静かに頭の中を掻き乱すのだ。
一体何を思い出せというのか。
確かに自分の過去にははっきりしない部分がある。何かが抜け落ちているのかもしれない。
しかしそんなものに興味はない。戦闘の知識とセフィロスへの憎悪。大事なことは全て覚えている。
それさえ覚えていれば他の記憶など。抜け落ちた空白があろうがなかろうが、どうでもいいことだ。どうでも、いい。
それなのにざわざわと騒ぐ。俺の中で、声が騒ぐ。
胸が。体が。頭が。あの子供が、 あの人が―――
……?
“あのひと?”
……化け物でも子供でも少年でもない、第四の存在だ。
人の形をしているけれど男か女かも分からない。知らない奴、だ。
誰だと思う?
鏡の中から見つめてくる魔晄の蒼が問い掛けてくる。
クラウドは眉を寄せて吐き捨てるように言った。
「知らない」
知ってるよ
「……黙れ」
知ってる
「……ッ!」
ドクリと心臓が跳ねた。締め付けられた反動で刹那、意図せず握り締めた拳を目の前の鏡に叩きつけていた。
激しい音とともに砕けた鏡が床に散らばってバラバラになる。
宙を飛んだ光る破片が一筋自分の頬を切り裂いていくのが見えた。
部屋に響き渡る硬質な悲鳴に直ぐに意識は戻され、弾かれたように洗面台の枠に残った鏡を見た。
無残に裂かれひび割れた鏡面。かろうじて繋がっているピース。
こんなこと、するつもりはなかった。本当に無意識だった。
敵の攻撃を防ぐ防衛本能に似ていたかもしれない。勝手に動いた体。
呆然として床を見ると、散らばった欠片の――その一つ、血のついた欠片の中、に。
少年が一人。咎めるような、悲しそうな目をして此方を見つめている。
「な……」
驚愕に目を見開くが、次の瞬間にはその少年は忽然と姿を消していた。
破片を見つめたまま暫く動けなかったが、漸く冷静さを取り戻した頭が思考を再開する。
あれは目の錯覚だったのだろうか。
――鏡の中の少年は自分の姿をしていた。一瞬だったが見紛う程短い間でもない。自分はあの表情を見て、まるで咎めるようだと思ったのだから。
あれは確実に「この自分」とは違う表情をしていた。でなければ鏡の中の自分にあんなにも驚くものか。
(あれは、俺じゃなかった)
自分と同じ外見でも違う存在だった。あれは今こうして考えを巡らせているこの自分とは違う。たとえ姿が同じでも、あれは、もう。
「どう、したの?」
考えを巡らせる中、困惑した声に呼ばれてはっとする。
扉の方を見ると、ティファが不安げな眼差しで此方を見つめていた。
「クラウド、手が……!」
その言葉で目をやると、血が筋状に指を伝って滴っていて、ぽたぽたと床に円を残していく。
厄介なところを見られたと思った。
「……なんでもない」
「でも、顔も切れてるわ。手当てしなきゃ」
声を掛けてくれる彼女に
「いらない」
突っぱねるような言い方をしてしまったけれど。
でも、傷はこのままでいい。 このままでいいと思った。
ティファの横を通り過ぎ、彼女を残してその場を後にしようと洗面所を出た時だ。
「そんな言い方、ないんじゃない?」
強い語調で、だがそれに似合わぬ柔らかな声で片手を腰に当てたエアリスに進路を塞がれた。
「痛いよ。手当て、しよ?」
先のティファと同じ言葉が繰り返されてクラウドは溜息を吐く。
そもそも戦いの中で仲間が大なり小なり傷を負うのは珍しいことではないし、特にこの体の自己治癒能力は異常に高い。
自分で傷を負ったのが明らかなこの場面で、この程度の怪我に大騒ぎされるのは心地が悪かった。
黙ったまま場を去ろうと足を一歩踏み出したのだが、悪いことに彼女と目が合ってしまった。
ぴんと伸ばした背と同じくらい真っ直ぐなエアリスの真剣な目がじっと見つめてくる。
この目は強く惹かれるのと同時に、少し苦手だ。後ろでは多分ティファが不安の表情を浮かべているんだろう。……それも苦手だ。
クラウドの、まだ何処か冷静さを欠いていた頭がゆっくりと冷えていく。絆されるように彼女達二人の視線の直線上で静まっていく。
二人が何を心配しているのかを知ったから。この小さな傷のことではなく、自分の心を気に掛けてくれているのだと気付いたから。
不安にさせただけでなく、混乱した己への苛立ちから八つ当たりをしてしまったことをクラウドは悔いた。
「ごめん」
体ごと振り向いて謝ってからティファの顔を窺うと、彼女は小さく笑って頷いてくれた。
近付いてきたエアリスが、「クラウドえらい!」なんて言いながらにっこりと穏やかに笑う。
優しい空間に、気付けば顔は綻んでいた。
“大丈夫だよ”
その時、頭の中で聞こえるあの声が聞こえた気がした。
それは化け物の揺さぶるような声でも、子供の必死な声でも、少年の語りかける声でもなかった。
力強くて、凄く安心できる声だ。だれかの、声だった。
多すぎる、分からないこと。
いつも全く気にならないのに時々物凄く気になってどうしようもなくなる、俺の中の空白。
正直、ティファとエアリスを見ているとごちゃ混ぜの感情に酷く揺さぶられる時もある。
後悔、感謝、懺悔、眩暈、安堵、不安。そしてねがい。
二人に引き戻された洗面台、割れた鏡の前で指を染める血が水で流されていくのを眺めながら
(俺が誰であっても―――)
どうか二人の笑顔が消えてなくならぬようにと。
ぼんやりと、願った。