一匹の猫がいた。
真っ黒の毛と、胸元の白い毛が特徴だった。
いつも何かをじっと見ていた。
まんまるの目で、見つめていた。
とても賢い猫だった。
近付くと逃げられた。
シャァと威嚇するでも、爪で引っ掻くでも、驚いたように走り去るでもなく。ただ静かに距離を置かれた。
猫は自分の死期を知らなかった。
いつか死ぬことは知っていた。 死ぬこともあると知っていた。
けれどどんなに賢い猫でも人でも、自分の死ぬ瞬間の明確な時刻なんて、分かる筈もなかった。
猫は死んだ。
僕達の目の前で
本当に突然
あまりにも突然に。
僕達は猫が目を閉じる瞬間をとても近くで見ていた。
猫は死期が近付くと人前から姿を消す と云うのに
猫には姿を消す暇なんて無かったのだ。
――――
無かっただろうか。 ほんとうに?
違う……あった。いつだって、 あった。
死の時刻なんて分からなくても、死ぬこともあるとちゃんと知っていた。
それが近い未来のことかもしれないと知っていた。
だったら、それに備えて隠れてしまえばいいと、分かっていた筈だ。
だがあの猫はそうしなかった。
猫は悲しくなかっただろうか。
人のいる所であんな風に突然倒れて。
あんな風に死ぬ瞬間を皆に見つめられて。
惨めだとか、辛いとか、思わなかっただろうか。
猫がもし自分の死ぬ時刻を正確に知り得たとしたら?……此処を立ち去っただろうか?
いや
恐ろしく賢く、一人きりのあの猫を思い出し、僕は思った。
猫はもしかしたら、自分の死が人に見られようが見られなかろうが、どっちだって良かったんじゃないかって。
ただ一生懸命に自分の望むことをして、必要だと思うことをして、意志のままに力強く進めたなら。
誰にもその生きた痕跡を見られなくても、猫が存在したことを覚えて貰わなくても、良
かったんじゃないかって。
だからきっと、もし死ぬ瞬間をはっきりと知っていたと
しても
猫はやっぱり最後の最期まで、この場所を動かず自分のすべきことをしていたんじゃないかと思うのだ。