「あれ? お姉ちゃん、背中に何か付いてるよ」
雑踏の中で突然子供の声に呼び止められアーシェは足を止めた。
「え?」
彼女の横に並び歩いていたバルフレアもまた立ち止まり、その声の主を見る。
十歳前後の男の子だ。薄茶色の髪に同色の大きな目。如何にも無邪気な風貌だが、バルフレアは
見透かすように微かに目を細めた。
アーシェは何も知らず「背中?」と首を後ろに向けている。
トン、とバルフレアの足に正面から別の少年がぶつかってきた。
「おっとごめんよ!」
振り向きざまに謝ってそのまま駆けて行こうとしたのだが、そんな少年の腕をバルフレアはクイと
引き掴む。
「待ちな」
その瞬間少年は大きく目を見開き、アーシェは何事かとバルフレアの顔を見た。
「今盗った財布、返しな」
ほら、と片手を差し出し促すバルフレア。
その声は別に怒った風でもない普段と何ら変わらないものだったが、これは返すまで放してもらえ
ないぞと機敏に感じ取り観念した少年は、ちぇっと舌打ちをした。
「なーんだ、バレちゃったのか。やるじゃん兄ちゃん」
大きめの自分の服に包むように隠していた右手を出すと、そこにはバルフレアの言うように彼の
財布が握られていた。
「スリ……?」
呆気に取られたようにアーシェが呟く。
バルフレアは財布を受け取りまた仕舞い込みながら、少年達にニッと勝ち誇るように笑んだ。
「この俺からスろうなんて百年早いな。もっと腕を磨け」
「えー? これでも結構成功してるんだぜ! 兄ちゃんみたいに気付く方が珍しいよ」
アーシェに話し掛けた方の子が不満そうに声を張り上げるのをアーシェは驚いて見つめた。
この二人がスリの共謀者だと、そこで初めて気付いたのだ。
「ま、そうだろうな。兎に角、痛い目見ないように気を付けろよ?」
バルフレアはそう言うとパッと少年の腕を放してやった。
どうやら逃がしてくれるらしいと気付いた子供達は顔を見合わせ満面の笑顔になる。
「サンキュー!」
「あ、姉ちゃんっ。背中に付けちゃったのただの色水だから! すぐに水で洗えば取れるよ!」
心配しないでねーっと叫びながら駆け出していく子供達。
アーシェは最後に漸く事を理解した。
「アーシェ行くぞ」
染み取ってやるから、とバルフレアはアーシェの手を引いた。
近くの路地裏に備え付けられた水道でハンカチを濡らすと、バルフレアはアーシェの背にそれを押し当てた。
薄い衣服の上から水の冷たさが伝わってアーシェは一瞬びくりと背を震わす。
素肌の肩を手で押さえパタパタと染みを叩いて取ってやる自分が何とも甲斐甲斐しいものだと、バルフレアは可笑しく思う。
「自分で出来ます」と言い張ったアーシェに「背中だけど見えんのか?」とからかってやれば素直に言うことを聞いた。
少年達の付けた染みは薄い桃色で確かに取り易いものだったが、時間が経てばそれだけ落ち難くなる。アーシェだって小さな染みとはいえ
汚れた服で街中を歩きたくないだろう。
薄暗く人通りの無いこの路地裏に蛇口があったのは幸運だった。
「……よく分かりましたね。あの子達がスリだって」
沈黙に耐えかねたようにぽつりとアーシェが言った。
「ああ、あれは結構古典的な手口だからな。一人がターゲットの荷物や衣服に汚れを付けてそれを本人に教えてやる。相手が汚れに気を
取られてるうちにもう一人が近付いて盗む。今回は人の流れや位置的に俺の方が盗み易いと思って土壇場で俺に的を絞ったんだろうな」
お前が盗られてもおかしくなかった、とバルフレアは言う。
「そうなんですか……」
嘆息するアーシェの声に幾分感心したような響きが含まれているのに気付き、バルフレアはふっと笑って
後ろから彼女の顔を覗き込んだ。
「惚れ直したか?」
「最初から惚れてません」
「つれないねぇ」
キッパリ返してくれたアーシェに軽く笑い、体を横にずらして角度を変えながらまたポンポンと染み取りの手を動かす。
大分色が取れてきた。
「しかしお前、子供には随分寛容なんだな。もっと怒るかと思ったが」
「これくらいのことで子供に怒っても仕方ないわ。それに咄嗟に反応出来なかったから」
僅かとはいえ意図的に服を汚されてこれくらいのこと、と言えてしまうのはやはり寛容だと思うのだが、アーシェには自覚が無いらしい。
困った横顔のアーシェをバルフレアは穏やかに見つめた。
白く透けるような肌。ふわりと柔らかそうな髪が掛かるのは長い睫に整った鼻筋。
その下に、薄い花弁のような唇がある。
近くで見るとますます美人だな、と思った瞬間にはもう吸い寄せられていた。
「ん……っ」
驚いたアーシェが顔を引こうとするのを、後頭部の柔らかな髪に手を埋めて押さえつける。彼女の体が完全にこちらに向くと、
そのまま髪を撫でるように細い首筋へ手を滑らせた。バルフレアのハンカチを持ったままの手が先程までと違いぐっとアーシェの背中に
押し当たった。濡れた布の張り付く感触にアーシェはぎゅっと目を瞑る。
軽くはないが深くない口付けを終え、バルフレアは唇を離した。
「……なん……ですか、一体……」
はぁっと息を漏らしてからアーシェは唇を押さえて言った。
頬は微かに紅潮して、戸惑いが顔全体に浮かんでいる。
“なんですか、一体”
その言葉にバルフレア自身もはっとして首を傾げた。
(何やってんだ? 俺は)
まさか自覚無く意図無くやってしまうとは。
無意識に吸い寄せられるなんて初めてだ。
「わりィ。……何だろな?」
体を離して眉を寄せ本当に分からないといった様子を見せるバルフレアに、アーシェは更に混乱する。
頬を叩いてやりたいと手を上げたいのだが、そんな表情を前にすると何故だか動けない。
「……お前の顔が傍にあったから、か?」
なんて疑問系で返されるも、答えられる筈もなく。
「知りません、そんなの」
早鐘のように鳴る心臓の鼓動から目を逸らし、アーシェは怒ったように返事をした。
妙に真面目な男の声音が、訳が分からなかった。
まだ軽口で何か言われる方が良かった気がする。
アーシェが俯いて沈黙すると、気まずそうにバルフレアがこめかみに手を当てた。
「……とりあえず服の染み、ほとんど取れたから。一応後で処置しておけよ」
ポン、とアーシェの肩を叩く。
「あ……」
ハンカチを仕舞い踵を返したバルフレアを呼び止めようとするものの、アーシェの五月蝿い心臓の鼓動がそれを邪魔する。
「お前って……」
ふと何か言おうと立ち止まったバルフレアは、だが「いや、いい」と首を振ってまた歩き出してしまった。
“お前って”
「……何よ」
アーシェには彼が何を言おうとしたのか分からない。
けれどバルフレアも分からなかった。
(本当に俺の調子を狂わせてくれるよな)
後に続けようとした言葉の、それが正解な気がして。
路地裏に残されたアーシェが俯き唇をそっとなぞる間に、彼は自分に「ダセぇ」、と独り言ちた。
アーシェにもハンカチ関連で何かして欲しかったのです。