薄明・5





  目を覚ました時、土方はひやりと冷たい風が吹き込む山中の小屋のような場所に寝かされていた。
  辺りに夜の空気が漂い、パチパチと火の爆ぜる音がする。
  此処が何処かは分からないが、どうやら自分はまだ生きていて、気を失っていたらしい。
  そうして意識の無い間に何者かに此処まで連れ去られたのか。
(? 斎……藤?)
  ズキリと頭が痛み記憶を取り戻す。あれは夢だったろうかという思いになったが、すぐ傍から掛けられた声に、現実であることを証明された。
「水をどうぞ」
「斎藤……」
  視線は一瞬だけ合い、そして逸らされた。
  何処か余所余所しいその態度に大した疑問を持つ間も無く、胸がかっと熱くなり瞼が震える。
  本当に生きていたのか、とは声にならなかった。
  羅刹と化した斎藤と再会した先程よりもずっと苦しいのは、羅刹化から戻ったのか、其処に以前と変わらぬままの生きた姿があったからだ。紫がかった艶の黒髪と深い紺色の瞳。土方の好きな斎藤の色。
  斎藤は何も言えない土方の手をそっと持ち上げると、水の入った竹筒を持たせた。
  背に添えた手に促されるまま土方は身を起こし水を口に含むと、ひやりと喉を冷やした。然し不思議なことに、期待した潤いを――かつて渇きを癒してくれたあの水の心地良さを感じることが出来ない。
  そして気付けば凄まじい疲労感がある。
  脇腹に手をやると、新しい包帯が巻かれていた。然し、その布の下にはある筈の痛みも傷の感触も無い。
  嗚呼、と得心した。
  あの時羅刹の斎藤から唇を通して注がれたもの。――あれは確かに変若水だった。
「ご気分は」
  短く問われた声は感情が見えない。斎藤の顔を長い前髪が隠していた。
「悪くねぇよ」
  他意も無く同じように短く答えると、ぴくりと斎藤の肩が震えた。
「斎藤」
  漸く昂ぶっていた気が少しだけ落ち着いてくると、土方は腕を伸ばし斎藤をその胸に抱き寄せた。
「よく、生きててくれた」
  離れている間、いつも何処かで待ち望んでいた存在。前よりも些か痩せたその肩にぐっと力を込める。ともすれば折れてしまいそうな程強く。
  触れることの出来る身体は生者にのみ許されたものなのだと確かめるように。
  土方の胸で、こくりと斎藤の顎が小さく揺れた。
「はい。……ですが土方さんは」
「ん?」
「死に掛けていた」
「……ああ」
「なのに」
  消え入りそうな震える声がした。
「俺はあんたの死に場所を奪った」
  この場の時を止めるかのように重く、振り絞られた言葉はその身と同じく震えていて、これが本当にあの斎藤から洩れた言葉だろうかと疑ってしまう。
  けれども、何年も共に過ごしてきた相手だから。心だっていつも共に在ってきたつもりだから。
  だから手に取るように、相手の心が見える。
  斎藤は、罪の意識に苛まれている。
  新選組の幕引きを己の死で遂げようと決めていた土方の覚悟を、よりによって変若水という邪法で妨げたことを。死を覚悟した武士のそれが如何に重いものかを斎藤が知らない筈が無い。 土方に変若水を飲ませる直前、お許し下さい、と斎藤は言っていた。
  土方が俯いた斎藤の頬にそっと指を添えると、しっとりと濡れていた。
  土方の顔がくしゃりと歪む。
「馬鹿やろう…なにを泣いてやがる」
「共に……死のうと決めていました。最後にあんたに会えたなら、もう悔いは一つも残らないと。だが、あんたの命が失われていくのを目にして……。そうしたら、嫌だと。どうしても、俺は……」
  土方の掠れた声に、斎藤が嗚咽交じりの声を上げる。
「あんたは、もう二度と日の下を普通に歩けない。水を飲んでも、その渇きを潤すことが出来ない。血を求め夜を彷徨う化け物になった。俺が、そう、した……」
「それでも」
  斎藤は、そこで初めて顔を上げた。
「それでも俺は、あんたに恨まれても、生きていて欲しい」
  初めて見た斎藤の泣き顔は酷く苦しそうで、土方は思わず首を振った。
「泣くな」
「泣いてなど…」
  斎藤は笑みを浮かべようとして、失敗した。
  そんなあからさまな嘘ですら愛おしい。
  彼とてずっと、自分と同じく敗戦の屈辱を味わってきた筈で。
  日の下を歩けず、喉を潤せず、血を求める葛藤に苦しんでいるのは同じな筈で。
  そんな境遇でも、そんな身体になっても折れない心でずっと土方の意志に寄り添ってくれた彼を。死なないで欲しいと戻って来てくれた彼を、許すも許さないも無いではないか。
  けれどたとえそう伝えたとしても彼は彼を許せないのだろう。だから――
「馬鹿野郎、俺は死ぬつもりだった」
「……はい」
「あそこで死んで、新選組を終わらせるつもりだった」
「分かっています」
「俺は……俺達は二度と人間に戻れねぇ」
「はい」
  ならば
「責任を取りやがれ」
  斎藤がはっと目を見開いた。
「……共に生きよう」
  強く抱き締めながら耳元に吹き込む。
  いきましょう、と。
  あの赤い夢の中で白髪の鬼は言ったのだ。   二人なら、この先の道が決して明るくない未来でも、羅刹として果ての無い地獄へと向かっていくのだとしても、生きていける。
  ずっと、ずっと。
  はい、と小さな声が答えた刹那、己の中の絶望が霧散していくのを、土方は感じた。









      Fin.