月夜の暁・1





  川縁を一人歩いていた男の目が鋭さを持って、彼は足を止めた。
  人通りの無い道にぽっかりと月の浮かぶ夜の中、空気が不意に張り詰めたのを感じる。
  それは風が撫でる水面の波紋程の殺気で、確信を得る間も無く、それを感じた時には既に刃が男――土方を襲っていた。
「ッ!!」
  ガチリと二刀がぶつかり音が弾け、腰を落とした土方の兼定を敵の刀身が滑ってゆく。
  上方からの襲撃を間一髪かわして横からの二刀目も受けると、押し返す力を利用し後ろに跳んで距離を取った。 敵もまた体勢を立て直し土方から離れる。
「新選組の土方か」
  夜の闇で顔はよく見えないが、抑揚の無い静かな声で男が尋ねる。
「お前は?」
「斎藤一」
  答えを期待せずに訊いたのだが男は律儀にもそう名乗った。
  どう見ても暗殺に来た風体なのに名乗るとは、と土方は唇を歪める。
  名を告げることに抵抗が無いのは仕事を遂行し土方の口を塞ぐ自信があるからということだろう。
「死んでもらう」
  奇妙な程響く声で男が言った。抜き身の刀が月光を受けて獰猛な色を見せ、持ち主の牙となって飛び掛かって来る。
  幾度か刃を交えながら土方は舌打ちした。
(っ正攻法じゃ勝てねぇな)
  流派のよく分からぬ剣筋に恐るべき手数の多さ。更にどういう訳か急襲者は鍔寄りに左手を添えて構えていて、 左利きの剣士など相手にしたことが無いから動きが読みにくい。
  判断した瞬間に土方は川辺へと走った。追って来た男が丁度良い位置に来るのを見計らい、走りながら掌に拾い掴んだ 砂利小石を男の顔目掛けて投げる。
「くっ」
  そう来ると思っていなかった男は咄嗟に顔を背けたが、暗さもあり反応が遅れ、石礫が目に当たり怯んだ。土方は着ていた羽織を瞬時に脱ぎ去り彼に向けて放り投げた。 網に掛かった獲物の如く布に視界を奪われた刺客を串刺しにするべく、土方は駆ける。
  本来ならばこれで終い。然し、男は視覚を奪われながらも土方の位置を察知して刀を的確な方向に突き出してきた。
「!」
  焦り何とかかわした土方の着物の肩を刃がびりびりと引き裂いていく。薄皮も同時に裂かれて出血し、肌は粟立っていた。
  突如視界を失ったそんな状況下ですら冷静に反撃した男に土方は心底戦慄したが、咄嗟に戦法を変えることが出来るのは土方の多摩での喧嘩三昧の賜物だ。 土方は刀の勝負から一気に喧嘩勝負へと切り替えて、体ごと突進し男を転ばせると馬乗りになった。被せた羽織で首を絞め上げる。
「ぐっ! う、」
  細い首を圧迫され男が呻いて土方を押し退けようとするが、この体勢では土方が有利だ。
  刀を奪い、暴れる男を押さえ込んでぎりぎりと絞めた。
「―――ッ」
  男が視線を上げる。
  その時の彼の、睨み据える眸。
  それを目にした刹那土方ははっとした。
「お前……」
  組み敷いた男は、声にならぬ声で喘ぎながらも真っ直ぐに射殺すような眼差しを向けてくる。
  其処には本来浮かぶ筈の感情、所謂死への恐怖や絶望がまるで無く、ただ眼前の敵を何としてでも殺したいという剥き出しの殺意だけが 宿っていた。追い詰められた手負いの獣ですらここまで純粋な殺気を放てはしないだろう。
  目にすればする程呑まれていくような、ぞっとする痺れのような感覚が土方の背を撫でていった。
  そのまま絞め落とすことも出来たというのに、土方の手の力が緩む。
  自分でも納得の出来ない行動だったが、未だこの斎藤という男の顔も彼を使った黒幕についても確認していないことを言い訳にした。
  手を緩めたことで気道に流れ込んだ空気に激しく咽ている男の首筋に素早く刃を当てる。
「俺の勝ちだな」
  一頻り咳き込み呼気を整えた男は、絞殺を止めた土方を訝っていたようだが、やがてぽつりと声を漏らした。
「そのようだ」
「何だ、もう諦めたか」
「まさか。命尽きる時まで勝負を諦めはせぬ。俺が死ぬまでは気を抜かぬことだ。あんたが隙を見せたら即座にあんたを斬り殺す」
  まったく負け惜しみとしか言いようの無い台詞にも思えた。
  この体勢から彼が優位に立つ状況に好転するようなことは凡そ不可能だし、土方もそんな隙は見せない。 にも関わらずそれがまるきり彼の叶わぬ願望に過ぎないとは言えない迫力が、彼にはあった。
  この男こそ武士、即ち人を殺す人間というものを体言しているようだと、土方は思い、興味が湧いた。
「お前、俺のやり方が卑怯だとは言わねえのか?」
「……?」
「石を投げて目潰し。羽織で首絞め。俺の武士らしからぬ戦法に散々文句言って死んでった奴は何度か見てきたんだがな」
  天然理心流が実戦を重んじた剣術であるとはいえ、己のやり方が更に邪流の喧嘩戦法だという自覚はある。 それがこの剣客の気に障り、負けた言い訳として口にされないのが不思議だった。
「……邪法など言い訳にならん。どんなやり方でも殺せば勝ち、死ねば負け。刀を差した時から分かりきっている、至極単純で当然の道理だ」
「当然、か」
「そもそも邪道の剣を使う俺が、一体誰を卑怯と罵れるのか」
  そう呟いた言葉はこれまでのどれよりも低く、どれとも異なる嘲りの色を持っていた。
  嘲り――己に対してだろうか。それとも、至極当然の道理を舌先に乗せるばかりで噛み締めもしない世の連中にだろうか。
  いずれにしても土方は、こいつだ、と思った。
「気に入った」
  世の大半がその道理を分かっていない中で、己の死すら当然と断言するこの男こそこれからの新選組に必要なのだ。
  浮かぶ灰色の雲が流れ、一時の間隠れていた月が現れ彼を照らした。
「斎藤」
  唐突に名を呼ばれ、変化した空気に斎藤ははっとする。
  上に乗った土方が唇を吊り上げていた。
「新選組に来い」
  その一言を聞いた刹那、斎藤の腹部に衝撃が訪れ、彼は昏倒した。